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私は22歳のときくも膜下出血を発症しました。でも、なんとか復活できました。
そのときの体験談を、歴史的な情景(1985年です)を交えて・・・。
まず、くも膜下出血の簡単な説明を・・・
詳しくは、クモ膜下出血 - Wikipedia
をご覧下さい。
私の場合は脳の動脈に瘤(こぶ)が出来ていて、それが破裂しました。
バックリと結果は以下の3パターンで確率は各々1/3です。
1.死亡
2.何らかの障害が残る
3.社会復帰可能
という、恐ろしい病気です。
発症
6月下旬の火曜日だったと思います。その前の日曜日に、彼女と遊びに行ったので、遊びに行ったときの写真が出来たという事で会いました。(この、1985年頃はデジカメがないので、フィルムを写真屋さんに預けて、翌日に写真を受け取るシステムです。)
一緒に食事をして、写真を分け合って、お開きになりました。
私はバイク、彼女は車で、私の寮と、彼女の家との中間地点で会っていました。
私はオフロードバイクなので、キックスタートでエンジンをかけました。その瞬間コブが破裂したようです。突然頭が痛くなりました。
彼女に、「ごめん、急に頭が痛くなった。ちょっとトイレに行って来る。と言ってフラフラとトイレに行きました。頭が痛いのにトイレ?!今思うと変なのですが、自分としてもテンパっていました(脳で出血しているのに血圧が上がる行為など愚の骨頂です)。
本当にラッキーなことに、彼女は医療事務の仕事をしており、私の異変を重大なことととして察知してくれました。さらに重ねてラッキーなことに彼女もライダーであるということでした。
バイクに戻ってきたときには、彼女はバイクのエンジンを止め、キーを隠してしまった後でした。
これを見て、私はバイクに乗って帰るのを諦める決心がつきました。
「申し訳ないけど、寮の近くの病院に連れて行って」
と言って、彼女の車で、寮の近くの病院に連れて行ってもらいました。
(今考えると本当の正解は、救急車を呼ぶことです)
病院
病院に到着すると、すぐにCT撮影を行い、くも膜下出血の診断がなされました。以降の意識はありません。頭が痛くてどうしようもなくて彼女にメガネを預けた記憶が最後です。
以降は、後から聞いた話ですが、翌日に病院から会社に連絡が行き、会社の知ることとなったそうです。
病院は病院で、脳外科のドクターが居ないので、他の病院から脳外科の先生を連れてきて翌日中に手術をする予定だったそうです。
それなのに、会社の人事部は私を無理やり転院させました(理由は後述)。転院先は、会社と同じ名前がついた病院です。
転院
おぼろげながら転院の記憶はあります。ストレッチャーで運ばれながら、看護師さんが、「若いのに瘤(りゅう)って珍しいね」って会話している状況です。
入院生活(前半)
今では、出来るだけ早く手術を行うのが常識ですが、その頃は、即日の手術を逃した場合は、2週間ほど待って、容態が安定してから手術を行うのが普通だったようです。
手術までは、刺激はダメ(特に光)とのことで、部屋の蛍光灯を黒い紙で覆った部屋に入院しました。もし再出血したら、殆どアウトです。
家族は、薄氷を踏む思いだったと思います。
家族の態度
両親はもうダメだと思って諦めながらも看病をしてくれました。
これはこれで、ありがたいのですが、一番精神的にありがたいと思ったのは弟でした。
弟は単純に「自分の兄が死ぬわけがない」と微塵も私の生還に疑いを持っていませんでした。それ自体、根拠は全くないのですが、なんかアブナイ状況に居る私にはありがたかったです。
このときの状況を言語化できないのが悔しいのですが、とにかくありがたかったです。
1回目の 手術
執刀医は30代の若い先生です。私は、細かい手術なので若い先生でよかったと思いました。
手術は、脳動脈瘤のクリッピング手術です。開頭して、動脈瘤の根元に直接クリップをかけて血流を遮断する手術です。
開頭手術ですから頭を剃毛します。
バリカンで刈って、その後カミソリで剃ります。
看護師さんが剃毛してくれましたが、あまりうまくなくて、頭のあっちこっちで出血してしまいました。手術前なのに頭は血まみれという第三者的に見ると笑える状況になってしまいました。
剃毛以外は手術の前も後も殆ど記憶に残っていません。手術後の酸素テントが涼しくて心地よかった記憶しか残っていません。無事に終了しましたが、成功したか否かは、後日の血管造影撮影をしないと判断できません。その頃はそれしか手段はなかったのです。
血管造影撮影の結果、手術は成功でした。
手術して数日後、私は立って歩くことを許されました。2週間以上寝たきりだったので立つことがひどく力の要る仕事でした。
2回目の手術
実は、検査の結果、私の脳には出血した右側の瘤の他に左側に2つの瘤が発見されていました。
執刀医は、「予防的な意味で、ピュッと取っておきましょう」と軽いノリで勧めてくれました。なので、私も「それじゃお願いします」と軽くお願いしました。
やっぱり、医師の態度って大事ですよね。おかげで本来不安になるはずが、全然、気にならなかったですから。
2回目の手術は精神的に気楽で、手術室に入っても周りを見る余裕がありました。
「じゃ、麻酔をかけますからね~。数を数えてください」と言われて、3まで数えた記憶はあるのですが後はわかりません。
次に意識が戻ったのは涼しい酸素テントです。不満なのは執刀医が私の意識が回復したらすぐ酸素テントを片付けてしまったことくらいです。
でも、恐ろしいことが起きていたんです!↓
2日後くらいに血管造影撮影を行い、成功が確認されました。
そのとき執刀医が「1つの瘤は目の裏で見えない位置だったんだけど、あてずっぽうでクリップを掛けたら成功した。ん~、今晩はビールがうまいわ!」と言ったのが印象に残っています。どういう意味で言ったのかは分かりませんが、今では考えられない発言です。
入院生活(後半)
もう手術が完了して瘤は全部片付いたのですから、あとは体力の回復です。
最も印象に残っているのは夜に、なんとはなしに窓の外を見たときに、矢田川の花火が見えたことです。
花火を見ながら「あー、俺は助かったんだぁ」と深~く実感しました。
それ以来私の中では花火は生命の象徴です。
退院
お盆を前にして退院しました。しばらくは実家で療養です。
医療費
本来は、200万円以上請求される医療費が無料でした。ただ、個室料金は60万円ほど払いました。
これこそが、会社の人事部が無理矢理転院させた理由です。この病院は元々会社の一部だったのが独立した病院です。そのため健康保険組合が会社と病院で共通なのです。
こういった理由で医療費が無料なのでした。
ありがとう
各所の医療機関の人、そして会社の人のおかげで命を永らえることが出来ました。
また、家族や、特に弟には迷惑をかけました。
それに彼女、彼女が居なかったら、まず、病院までたどり着けなかったと思います。
命の恩人です。
その2は、
次のリンクをご覧下さい。
30年前の古い医療技術ではなく、現在の医療技術の話になります。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。<(_ _)>
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